殿海道山源氏車
山車および山車組データ
建造
嘉永5年(1852)
改造
大正10年(1921)、昭和24年(1949)
代表彫刻
- 壇箱:「樊噲(はんかい)の門破り」(立川和四郎富重)
- 脇障子:「風神雷神」(立川和四郎富重)
- 脇障子:「風神雷神」(初代彫常)
- 前山蟇股:「花和尚、弁慶」(立川和四郎富重)
- 前山懸魚:「龍に天女」
- 蹴込:「鴨」(嘉永6年)
- 持送り:「合戦出陣」(嘉永6年)
幕
- 大幕:緋羅紗地の無地
- 水引:白羅紗地に「松と鷹」の刺繍
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
補足解説
乙川の山車の起源は、定かではないが、宝暦5年(1755)作成の乙川村祭礼絵図に、山車巡行が描かれていることにより当時の様子をある程度知ることができる。乙川殿海道山源氏車は、現在と同様浅井山宮本車に次ぎ2輌目を巡行している。上山には、「紅葉狩りからくり人形」が飾られているが、現在はない。この後、改築を繰り返し、大正10年現在の山車を新調した。しかし、主な彫刻は、そのまま受け継がれ山車を飾っている。
江戸時代から、乙川では、若者組(若連中)と中老組が組織され、この組織を中心に祭礼行事が行われた。祭礼行事の運営にあたり、若者組の行動をはじめ、多くの問題が生じたため、「定」が設けられた。殿海道山には、宝暦2年(1752)作成のの「定」をはじめ、多くの記載が残されている。宝暦2年(1752)の「定」には、祭礼行事の規定が書かれている。これは、村役人から各山に宛てて出された内の一通であり、半田市内に現存する明文規定の内で最も古い史料である。
彫刻は、諏訪の彫師三代目立川和四郎富重が嘉永年間に彫ったとされる段箱「はんかいりの門破り」、脇障子「風神雷神」、前山蟇股「花和尚、弁慶」が代表作とされている。この他、地元半田の彫師新美常次郎作の脇障子「風神雷神」等や、作者不明ではあるが、嘉永6年に彫られた蹴込「鴨」、持送り「合戦出陣」等も優れた彫刻といえよう。脇障子が2組あるのは、道行き用と神社奉納用ととりかえるためでもある。水引は、白地に松鷹の刺繍、大幕は昭和57年に緋羅紗地に牡丹の刺繍を施したものである。
尚、源氏車に限らず乙川の山車には後部を飾る追幕、鳥毛吹流し等がない。これは、かつて上山一ぱいを使った「からくり人形」が置かれていた頃の名残であろうと考えられる。
「半田博物館展示解説」より引用