乙川地区
乙川八幡社、若宮社例大祭
2024年3月16日(土)、17日(日)
乙川祭りは、現在では春の彼岸の頃に行われますが、古くは旧歴の正月15日、16日(現在の2月上旬頃)、一年で最も寒い時季に行われており、小雪が吹きすさぶ寒風が「糸切り風」と呼ばれ、乙川の名物でもありました。
神輿(みこし)にのった神さまが乙川八幡社から御旅所である若宮社にお渡り(渡(と)御(ぎょ))し、翌日お還り(還御(かんぎょ))されるのが乙川祭りです。このとき神さまをお護りする、すなわち警固するために氏子より打ち囃子がだされ、山車(やま)四輌が曳き出されます。宝暦5年(1755)に描かれた「乙川村祭禮絵巻」が示すように乙川で古来よりこの形式が確立しており、今に受け継がれています。
見どころ
乙川八幡社での坂上げ坂下ろし
場所:乙川八幡社
時間:土曜AM10時~(坂上げ)、PM1時30分~(坂下ろし)、日曜PM3時~(坂上げ)、PM4時30分~(坂下ろし)
大きな重量の山車が急坂を下る坂下ろしは、坂上げとは違った迫力があります。
坂下ろしは危険が伴うため、坂上げとうって変わって若者は慎重に楫さばきを行います。
現在の坂下ろしは境内から参道を山車が直進しますが、昭和45年までは、境内の急坂を出た直後左に曲がり、境内の石垣沿いにコの字の狭い道を進んでいました。現在より難易度が高く、坂上げ以上に乙川祭りの見せ場でありました。近隣の村から多くの見物人が坂下ろしを見に来て、成功すれば拍手が湧きあがったとのことです。
最大級の山車
乙川地区の山車(やま)の特徴は、半田型(知多型の山車)の中では最大級の大きさを誇ることです。5年に一度、半田市内の山車が勢揃いする「はんだ山車まつり」での31台整列では、乙川の山車の大きさはひときわ目立っています。大きさに伴い重量も重く、楫を切った時は地響きが起こります。この大きな山車自体が、乙川祭りの見どころといえます。
乙川の山車の大きさは、現在河和中組で曳かれている南山の旧車(江戸時代中期の建造)が高さは少し低いものの、前後・幅は現在の乙川の山車と変わらないことから、江戸時代中期から大きかったことがわかります。
彫金(飾り金具)
乙川の山車の特徴として他に挙げられるのが、隙間なく取り付けられた「彫金(飾り金具)」です。半田市内の山車でこれほどまで彫金で飾られた山車は多くありません。乙川の山車の彫金は、山車の大きさと相まって豪華さを醸し出しています。
彫金がふんだんに使用されているのは、乙川に山車が江戸時代後期まで塗り車(漆塗りによる山車)であったことが大きな要因であると推察されます。江戸時代後期から明治時代に前山部が、昭和20年代に上山・高欄部がケヤキによる白木に代わりましたが(南山上山・高欄部除く)、塗り車時代は彫金で飾るのが通常でした。現在の山車は、塗り車時代の金具をそのまま引き継いだり、新たに造ったりして彫金が飾られています。
神社
乙川八幡社・若宮八幡社
乙川地区の氏神でもある八幡社は、大永二年(1522)8月に再建されたことが棟札によってわかる。当時は「入水上社」といわれ、寛永元年(1624)11月の造営時には「入水八幡宮」といわれた。文政九年(1826)には、本殿を造営しているが、この頃は「八幡宮」といっていた。八幡社と呼ばれるようになったのは、明治十三年(1880)に拝殿を再建したときからである。
八幡社の祭神は、文政九年(1826)戌十月、当時の知多郡乙川村 社人榊原日向正が地頭所へ提出した書上の下書によると、神功皇后、慶神天皇、三女神(田心姫命、瑞津姫命、市拝嶋姫命)である。現在は、大正四年(1915)今の白山公園の白山社が合祀されたために、速玉之男命、豫母津事解之男命、菊理姫命の三柱が加わって八柱となっている。
八幡社の祭礼は、かつては例年正月十五日、十六日に行われ、神前へ御供と神酒を調進する。そして、十五日(宝暦五年《1755》の絵図には十六日とある)には、八幡宮大神は若宮八幡宮へ神輿行幸する。このとき、村方氏子中より山車四輌と音楽にて警固する。ここでは、獅子舞などを神前へ引渡し、糸からくり笹踊等を行い、一夜おこもりをして、翌十六日八幡宮へ神輿還御する。このときにも、山車と音楽、獅子舞などを引渡しする。このように乙川の祭礼の山車びきは、祭礼の余興行事ではなく、神輿行幸神輿還幸の警固である。従って、各山による町内びきがないのが特徴となっている。
「半田市誌 祭礼民俗編」より