北組唐子車
山車および山車組データ
建造
天保8年(1837)大改造
代表彫刻
- 壇箱:「唐子遊び」(立川常蔵昌敬)
- 脇障子:「手長足長」(立川常蔵昌敬)
- 蹴込:「牡丹に獅子」(初代彫常)
- 太平鰭:「雲に麒麟」(初代彫常)
- 持送り:「角つなぎ」
- 懸魚:「鳳凰」(初代彫常)
幕
- 大幕:緋羅紗地に猩々・瓢箪から駒の刺繍
- 追幕:北の文字の刺繍
- 水引:青羅紗地に群鳩飛翔の刺繍(松村景文下絵)
人形
- 前棚人形:三番叟(隅田仁兵衛真守)(六代目玉屋庄兵衛)
- 上山人形:「肩車離れからくり」(隈田仁兵衛)
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
人形
演目
肩車離れからくり
製作者(人形師)
隅田仁兵衛栄重
製作年
文政十二年(1829)
×中断時期 不明
×復活年 昭和55年〔1980〕七代目玉屋庄兵衛
×大規模修理 九代目玉屋庄兵衛
平成19年(2007)・平成28年(2016年)
由緒
下半田地区は、古くから醸造業や海運業が盛んであり祭礼の歴史も同様に古く元文四年〔1739〕五月に下半田八幡社〔業葉神社〕から寺社奉行に提出された文書〔部分写し〕に神輿神幸と三輌の山車が存在したとの記録があります。
さらに宝暦五年〔1755〕『尾陽村々祭禮集〔宝暦七年八月写本〕』にこの元文四年と同様の内容が記載された文章が再収録されています
下半田村 八幡宮祭礼八月十五日 警固傘鉾 弐本 母衣 五ツ 山車三輌 一輌ハ獅子頭太鼓乗セ 一輌ハ唐子 一輌ハ恵比寿乗セ
村中ヨリ社前迄引渡シ
右社同村 七郎平支配
〔愛知郷土文化史『紙魚』石田元季〕
この文章によると下半田村八幡宮祭礼において神輿神幸と警固役の山車三輌の曳き回しが行われ唐子乗〔からこのせ 現北組唐子車〕恵比寿乗〔えびすのせ 現南組護王車〕獅子頭太鼓乗〔ししがしらたいこのせ 現中組祝鳩車〕の三輌でありました、ここでの唐子、恵比寿、獅子は台輪〔台車〕に乗せられたからくり人形あるいは飾り人形であったと思われます。
これらの文章により北組は古くから唐子を乗せていた事が窺えます。
北組唐子車には三体の人形が乗せられています、山車の前山で『三番叟』を演じる三番叟人形一体、山車上部の上山で『人形からくり』を演じる大小の兄弟唐子人形二体です、どちらも祭礼日に山車の地区町内の曳き回しの途中と業葉神社ならびに山之神社の神社境内にて『三番叟』『人形からくり』が奉納されています。
上演ストーリー
小唐子(弟唐子)が桜の太鼓を叩きたいので大唐子(兄唐子)が肩車をして叩かせる、小唐子は一人で叩きたくて桜の木に掴まる。
所作・動き解説
まず大きい兄唐子人形が頭を振って歩き回り観客に挨拶し〈糸からくりが使われる〉、次に小さい弟唐子人形を台から離し〈最初の離れ技〉肩車して歩き回る。さらに肩車したままの状態で上の小唐子人形が囃子に合わせて太鼓を叩きながら首を振る〈さしがねを使わう〉。最後に肩車上の小唐子人形が桜の枝に付けられた糸車をつかみ、大唐子人形の肩の上から離れ桜の木の回転に合わせて空中を飛び回る動作をする〈2回目の離れ技〉。小唐子が桜の木に掴まるとぜんまいによる自動運動により首を左右に振る。
からくり機構解説
大唐子:糸からくり
小唐子:(差し金・歯車,ぜんまい)を使った 離れからくり
口上文
北組唐子車の上山からくり人形「肩車離れからくり」は、関西方面で完成された浄瑠璃型人形に尾張地方が発生地である木製歯車、鯨のひげバネ、ゼンマイを使用した和時計の技術が合体した自動運動人形と糸からくりの技術、さらに人形を操作する棒状の「さしがね」が加わった複合的構造にその特徴がある。「肩車離れからくり」はそれら四種類の構造上の特徴のすべてをあわせ持っている貴重な文化遺産である。
人形囃子の構成
始めは『六方』舞台役者の登場曲としても使われる曲
大正四年御大典祝賀行事の際に名古屋からの師匠〔細川寿々氏〕を招いて導入した曲
途中から『春風』
昭和五六年 北組囃子方相談役〔山下二三氏〕作曲
大太鼓・締太鼓・草笛
補足解説
元文4年(1739)5月、半田村から寺社奉行に差し出した文書には次のように書かれている。「八幡宮祭礼八月十五日警固笠鉾弐母衣五つ山車三輌一輌は獅子頭一鼓乗せ一輌は唐子一輌は恵比寿祭村中より社前迄引渡し右社同村七良平支配」
この文書にある唐子一輌とあるのが、北組の唐子車ではないかと思われる。その後文政5年(1822)の八幡社由緒書にも宵祭りの御神幸の儀式を中心に、三番叟、子供神子舞、獅子舞、笹踊り、俄狂言などの芸能とともに山車三輌も奉納されていたことが記されており、18世紀から続く祭礼の伝統の一端を知ることができる。
「唐子車」の名は、壇箱(前壇)に彫られた唐子の彫刻によるものであるが、北が「子」の方角であることとも関連付けられる。
現在の山車は天保8年(1837)に大改造がなされたと言われているが、上山高欄より上部には全体に塗りが施されていること、上山四本柱が角柱であることなど、天保期以前と思われる古い要素をとどめている。脇障子や壇箱の彫刻に合わせて天保8年に前山部分を改造したものと推定される。
「唐子車」が他の山車と異なる点に台輪がある。一般には平台輪は両妻を切り落として兜金をつけたり、木鼻を雲形、唐草形、象形などに加工したりするのであるが、この唐子車は外側と内側に波形彫刻があり、内側ではその一部を削り取って妻台輪をつけ、その一部は妻台輪奥にまで及んでいる。これは平台輪が当初からこの山車のために作られたものではなく、他から転用していることを示している。波形があるから船の部材ではないだろうかと言われているが、材料が欅であり、社寺の虹梁として用いられた可能性もつよい。
主要彫刻の脇障子の「手長足長」と壇箱彫刻の「唐子」は立川常蔵昌敬の作である。
立川常蔵昌敬は諏訪の住人立川和四郎冨昌の娘婿で、富昌の片腕ともなった弟子である。享和2年(1802)現長野県諏訪市湯小路に生まれ、富昌について腕を磨いたが、昌敬の最初の作品とされるのが文政4年(1821)に彫った豊川稲荷客殿の彫刻だと言われる。この唐子車の彫刻は天保9年(1839)のもので、昌敬が37歳の時のものである。
蹴込の「獅子に牡丹」太平鰭の「雲に麒麟」前山懸魚「鳳凰」などはすべて新美常次郎(彫常)一門の作であるが、蹴込の籠彫りは上半田北組のそれと並んで彫常一門の傑作とされている。
水引きは青羅紗地に「群鳩飛翔」の刺繍で、下絵は松村景文のものである。
また前山のからくり人形は三番叟であるが、面は隅田仁兵衛真守の作である。
大幕は緋羅紗地に猩々、瓢箪から駒の金刺繍である。