小板組旭車
山車および山車組データ
建造
江戸時代末期
改造
昭和23年(1948)
代表彫刻
- 壇箱:「仁徳天皇」(初代彫常)
- 脇障子:「大天狗、牛若丸」(瀬川治助重光)
- 前山懸魚:「梅に山鵲」(初代彫常)
- 蹴込:「笹竹」(瀬川治助重光)
- 持送り:「竹に虎」(瀬川治助重光)
- 蟇股:「張良と黄石公」(瀬川治助重光)
幕
- 大幕:緋羅紗地の無地
- 追幕:緋羅紗地に「清而美」の文字
- 水引:緑地に鴻ノ松の刺繍
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
補足解説
小板組は、板山地区の東部にあり、東は南知多半島道路、西は本板山、日役に接し、板山地区4組の中で一番戸数の多い農業地域である。小板組に伝わる天保15年(1844)の「定書」によれば、この地域は、「五軒屋(ごきや)、二軒屋(にきや)、小板山、東組」などと呼ばれた。その後、東組に統一され、現在も祭礼時「東」の文字が染め抜かれたはっぴを着用している。
小板組では、毎年1月中旬に祭礼委員長の改選が行われる。3月には、委員長が会議を招集して、祭礼委員長、副委員長、組長、会計、書記、氏子総代、宮議員、等祭礼委員が決められる。そして、この組織代表者によって祭礼常任委員会が構成され、祭礼に関する行事や日程について話し合い決定する。山車曳きに関する役割については、35歳以下の者で組織する青年会に一任され、車行事以下の役を青年会員から選ぶ。明治時代から大正7年までは若連中が祭の中心であったが、大正8年から青年団が中心になって役割を行っていた。昭和34年の伊勢湾台風によって祭礼が中止になり昭和35年青年団が解散した。その後青年会が新しく組織され、昭和39年祭礼が再開されるおり中心的役割を果たし現在に到っている。
小板地区では、長く途絶えていた神子舞を昭和57年に復活した。神子には小学校低学年の少女2人が選ばれ、約2カ月間、後見人の指導の元稽古を行い、祭礼当日板山神社の境内で神子舞を奉納する。
旭車の起源については、定かではないが、江戸末期から明治時代に活躍した瀬川治助重光の山車彫刻が残されている。現在の山車は、昭和23年、台輪、梶棒、脇障子を除いて大改修された。
彫刻は、瀬川治助重光の蹴込「笹竹」、持送り「竹に虎」、前山蟇股「張良と黄石公」、彫常の壇箱「仁徳天皇」等である。
幕は平成8年3月、水引に、鴻の刺繍をいれ新調した。