田中組神楽車
山車および山車組データ
建造
現車:天保8年(1837)
旧車は元禄~享保年間(1688~1736)建造
代表彫刻
- 前山蟇股:「三国志・劉備・関羽・張飛ー桃園の誓い」(立川常蔵昌敬)
- 壇箱:「鉄拐仙人・蟇仙人・蘭亭の庭(水くぐりの梅・竹林に雀)」(立川常蔵昌敬)
- 蹴込:「唐子に犬子(草花の黙景)」(立川和四郎冨昌)
- 持送り:「波に亀(浮き彫り)」(立川常蔵昌敬)
- 脇障子:「三国志 阿斗・超雲に張コウ」(立川常蔵昌敬)
- 懸魚:「太真王文人・波に龍」(立川常蔵昌敬)
幕
- 大幕:緋羅紗地に牡丹と唐獅子の刺繍(福田翠光下絵)
- 追幕:緋羅紗地に桜と孔雀の刺繍(福田翠光下絵)
- 水引:雲と霞と蝶の金刺繍(福田翠光下絵)
人形
- 前棚人形:巫女の舞
- 上山人形:傀儡師-船弁慶(竹田からくり)
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
人形
演目
傀儡師
製作者(人形師)
不明
製作年
不明
所有の変遷(譲渡を受けた先、時期など)
不明
からくり人形にまつわるエピソード等
生きた竹田からくりの化石とも言われており、古文書にある竹田からくりの傀儡師、船弁慶を再現したものとして、唯一無二の存在である。
上演ストーリー
演技は傀儡師が箱廻しで二体の唐子人形を操る(唐子遊び)ところから始まり、場面転換して船弁慶の物語が始まる。荒れ狂う海に義経、弁慶、船頭の乗る船が木の葉のようにゆれている。行く手に海中より平知盛の幽霊が現れ長刀を振るい、行く手を阻む、義経は太刀で立ち向かおうとするが、弁慶が数珠を持ち祈りをささげ、やがて知盛は海中へ消える。
再び場面転換し傀儡師に戻り、山猫が現れ山車の前に飛び出して終わる。
口上文
琉球の島はめでたい島よ 黄金の枡にてよね計るノーエ
シャノシャノ子供よ シャノシャノ子供よ
花が見たくば吉野へござれ 今は吉野の花盛り
子供来い来い花見ておどろ 花見て踊るはよい小女郎
イキンスイチョ エイチャ スイハイスイフス
スーイハ イソーハイミーチャ ハラギャンソー
オデギャンギャン
まんまるござる まんまるござる
十五夜のお月の輪のごとく
シッタン シッタン シッタンタン
急ぎ御舟を出すべし げにげにこれはことわりなり
いづくもかたきといふ浪の 立さわぎつつ舟子ども
えいやえいやといふ汐に つれて舟をぞ出しける
あら不思議や海上を見れば 西国にて亡びし平家の一類
一門の月卿雲霞の如く 浪にうかみて見えたるぞや
そもそもこれは 桓武天皇九代の後胤 平の知盛ゆうれいなり
あら珍しや如何に義経 思ひも寄らぬうら浪の
声をしるべに出舟の 知盛が沈みしその有様に
また義経をも海に沈めんという浪に
浮かべるなぎなた取り直し
巴浪の絞あたりを払ひ うしををけたて悪風を吹かけ
眼もくらみこころも乱れて 前後を忘ずるばかりなり
その時義経少しもさわがず うち物抜きもちうつつの人に
向ふが如くことばをかわし たたかい給へば
弁慶おしへだて うち物わざにてかなふまじと
数珠さらさらと押しもんで
東方降三世 南方軍荼利夜叉
西方大威徳 北方混合夜叉明王
中央大聖 不動明王のさっくにかけて
祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば
弁慶舟子に力を合わせ 御舟を漕ぎのけ汀によすれば
なお悪霊はしたい来るを おっぱらい祈りのけ
また引く汐にゆられ流れ また引く汐にゆられ流れて
あと白波にぞとなりにける
子供衆 子供衆
悪いことをせまいぞや
悪いことをしたものには
山猫に噛ましょ
スッペラポン
補足解説
田中組の上山人形「傀儡師」は、天明年間(1781~1789)に製作され、傀儡師人形が、船弁慶を演じる糸からくりである。傀儡師とは、江戸時代、首から箱を下げ胸のところで木偶人形を操った大道芸人である。この種のからくりは、摂津名所図絵の中に、船弁慶の一場面が描かれている。からくりの全国調査を行った山崎構成氏は、「唯一の曳山奉納戯である」と言っている。前山人形「巫女の舞」は、文化文政年間に製作されたが、製作者は不明である。
神楽車の創建年代は定かではないが、旧車は天明8年(1788)成田八兵衛の世話により、中ノ切組(碧南市大浜)に譲渡された。現在の山車は天保8年(1837)岸幕善兵衛が建造し、諏訪の立川和四郎冨昌、常蔵昌敬が彫刻を付けた。
上山人形「傀儡師」は、天明年間(1781~1789)に制作され、傀儡師人形が船弁慶を演じる糸からくりである。傀儡師とは、江戸時代、首から箱を下げ胸のところで木偶人形を操った大道芸人である。この種のからくりは摂津名所図絵の中にも船弁慶の一場面が描かれている。 前棚人形「巫女の舞」は文化文政年間に制作されたが、作者は不明である。
大幕は、緋羅紗に牡丹と唐獅子の刺繍である。水引は、雲と霞と蝶の金刺繍である。追幕は、緋羅紗に桜と孔雀の刺繍である。 これら幕類の下絵はすべて福田翠光画伯筆である。