彦洲組日之出車
山車および山車組データ
建造
明治時代
現車建造
大正4年(1915)
改造
昭和23年(1948)、昭和59年(1984)
代表彫刻
- 壇箱:「桃園の三英傑」(初代彫常)
- 脇障子:「黄初平仙人」(初代彫常)
- 大平鰭:「川中島の決戦」(初代彫常)
- 蹴込:「牡丹に唐獅子」(岩田冬根)
- 持送り:「竹に虎」(岩田冬根)
- 蟇股:「龍」(初代彫常)
- 懸魚:「松鷹」(初代彫常)
幕
- 大幕:緋羅紗の無地
- 追幕:白地に雲と龍の金刺繍
- 水引:白羅紗地の無地
人形
- 前棚人形:巫女の舞(六代目玉屋庄兵衛)
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
補足解説
彦洲地区は、西成岩の出郷で、水田が広がり、丘陵では酪農が営まれる農業地域である。人口は昔から西成岩と比較し少なく、津島神社にある明治40年4月建立の常夜灯に当時の戸数25軒が刻まれている。
祭礼は、成石神社への奉納と山車の町内曳きを中心に行われている。山車の起源は定かではないが、当初は小型の山車を曳いていたのを大正4年榊原庄太郎氏より寄進の申し出があったので、その車を西阿野へ売却し、各地区の旧材を用いて新しい山車を完成させた。
戸数の少ない彦洲の人々にとって、新しい山車の完成は宿願であり、その喜びは想像にあまるものであった。そのため完成の際、人々は日の出車を曳いて御大典の祝歌を歌いながら遠く成岩の榊原庄太郎氏経営の尾張製粉会社までお礼に行ったという。彦洲の車を日の出車というのは、あるいは大正天皇御大典の歌の「昇る朝日」に由来しているのかもしれない。
その後、修理を繰り返し、昭和24年頃に、亀崎田中組から上山などを譲り受け大修理を行い現在の形になった。彫刻は、明治45年初代彫常(新美常次郎)作の壇箱「桃園の三英傑」、脇障子「黄初平仙人」、昭和26年岩田冬根作の蹴込「牡丹に唐獅子」、持送り「竹に虎」。大幕は緋羅紗の無地、水引は白羅紗の雲龍。