浅井山宮本車
山車および山車組データ
建造
安政6年(1859)
改造
昭和25年(1950)
代表彫刻
- 壇箱:「竹林の七賢人」(立川和四郎冨重)
- 脇障子:「大天狗玉取之彫」「仙人玉取之彫」(初代彫常)
- 持送り:「力神」(初代彫常)
- 蹴込:「舟遊び」(初代彫常)
- 蟇股:「大楠公父子の別れ」(初代彫常)
- 懸魚:「牛若丸と烏天狗」(立川角三郎)
幕
- 大幕:緋羅紗の無地
- 水引:「波に龍」の縫いつぶし(下絵:鬼頭道周)
人形
- 前棚人形:三番叟
- 上山人形:「唐子遊び(乱杭渡り・変身)」(山田利圀)
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
人形
演目
唐子遊び(乱杭渡り・変身)
製作者(人形師)
山田利圀
製作年
平成9年
由緒
明治末期頃まで「小烏丸 夢の助太刀」の演目で八幡社、若宮社にて奉芸されていたが維持、管理、後継者等々により途絶えた。
平成9年に山田利圀氏により知多型の山車に合った演目(唐子遊び)で当時90年振りに復活し現在に至る。
からくり人形にまつわるエピソード等
からくり人形の種類として離れ技(綾渡り、乱杭渡り等)、変身技(唐子→扁額等)、文字書き、逆立ち等々が各地で奉芸されており、その中の離れ技、変身技を組み入れ、全くの独学で試行錯誤の繰り返しの末に完成させた。
上演ストーリー
大菩薩に弟子入りした唐子が幾多の困難と苦行の中で荒技を会得し小唐子は樋を渡り五段の乱杭を歩いて渡る離れ技。大唐子は嬉遊し額に変身し悪霊を袚い村中の安全祈願の人形戯なり。
所作・動き解説
大唐子と小唐子2体で構成され小唐子はバランスをとりながら五段の乱杭を渡る離れ技をします。大唐子は状況に合った言葉が書かれた文字扁額に素早く2~3回返信します。
からくり機構解説
数個の滑車と無数の引き糸にて動作させる。4~5人の人力にて連磨した技術で人形をあやつる。
口上文
糸切り風吹く 乙川の御祭礼 入水宮に曳き出す 浅井山にて演ずるは乱杭渡りの唐子なり 氏子の皆様 ご笑覧あれ
人形囃子の構成
囃子 → 口上 → 小唐子(囃子) → 大唐子(囃子) → 囃子 → 終了
補足解説
宝暦5年(1755)乙川村から尾張藩に差し出した絵図の控えが、乙川八幡社に保存されている。先頭は獅子、その後に神輿(みこし)とそれと供奉して神主、二人の庄屋、組頭が四人、差樽とつづき、その後に4輌の山車がくる。この行列は、半田地方の古くからある祭礼の典型的な形で、山車は神輿の警固(警護)であることを示している。乙川村では宝暦2年(1752)正月に祭礼の法式を改革して『定』を作成しているが、その中で「定」・「祭礼定日之事」として「唯今之通正月十五日十六日若雨天亦ハ如何様之指支出来仕候ハヽ指延シ置始楽本楽両日急度相勤可被申被」とある。乙川村の祭礼の定日は旧暦正月十五日、十六日であった。絵図に描かれた四輌の山車の先頭を行くのが浅井山宮本車である。上山には『小鳥丸夢の助太刀からくり人形』を乗せている。宮本車というのは、地縁によって分割した山車組の地域の中に氏神が所在地を含まれている場合に付けられる名称である。従って巡業の際は山車の先頭を行き、前山で三番叟を奉納する。
浅井山宮本車の壇箱彫刻「竹林の七賢人」は安政6年(1859)に立川和四郎富重が彫ったものである。脇障子の『牛若丸烏天狗』前山懸魚『牛若丸烏天狗』はともに地元乙川の彫師である立川和四郎の弟子立川角三郎が安政6年(1859)に彫ったものである。持送りの力神は大正11年に蹴込みの『舟遊び』は昭和25年に初代新美常次郎が彫ったものである。
「半田博物館展示解説」より引用