南山八幡車
山車および山車組データ
建造
天保年間(1830~1844)
代表彫刻
- 壇箱:「桃園の三傑」(初代彫常)
- 蹴込:「牡丹に唐獅子」(初代彫常)
- 脇障子:「須佐之男命・稲田姫」(初代彫常)
- 持送り:「昇り龍」(初代彫常)
- 吹抜格天:「龍」(早瀬長兵衛一門)
- 蟇股:「近江八景」(早瀬長兵衛)
- 前山四本柱:「黒柿に金焼付」
幕
- 大幕:緋羅紗の無地
- 水引:白羅紗地に「群鳩飛翔の図」の刺繍(森高雅下絵)
人形
- 上山人形:「役小角大峯桜(えんのおづのおおみねざくら)」(九代玉屋庄兵衛)
山車全体写真
彫刻
法被・看板
手拭
人形
演目
役小角大峯桜(えんのおづぬおおみねざくら)
製作者(人形師)
九代玉屋庄兵衛
製作年
2007年(平成19)3月
所有の変遷(譲渡を受けた先、時期など)
新規導入(復元)
由緒
宝暦五年(1775)に尾張藩へ提出された「乙川村祭礼山車絵図」の南山の山車高欄には、からくり人形が設置されており、「役正角大峯様からくり人形」と詞書が記されている。絵図以前から山車に「からくり人形」があったことが分かる。
時代が下り、明治36年(1903)に山車の老朽化に伴い、河和中組に山車一式を売却した。この前後に、からくり人形も失われたようである。以後、からくり人形は近年まで復元されることはなかった。
からくり人形にまつわるエピソード等
宝暦五年の「乙川村祭礼山車絵図」のように復元するか、あるいは、安価なものにするか大きな議論となった。結果、高価でも「役小角大峯桜」乱杭渡りのからくり人形復元を希望する役員が多数となり復元新調が決まる。
また、先行して同じ乙川地区の浅井山が唐子の乱杭渡りが演じられていたが、南山は乱杭渡りの機構が重なることは已む無しとし、復元新調した。
上演ストーリー
大峯山に住む赤鬼が現れる。鬼はマサカリをかつぎ辺りを圧するがごとくに歩く。そこへ、役行者(役小角)が登場する。行者はおもむろに辺りを見渡しながら乱杭を渡り、鬼をも支配できる法力(呪法)があることを鬼の前で披露する。鬼は行者の前で、頭を垂れ恭順の態度をしめす。
続いて、行者は桜の枝(綾棒)を左手でつかみ、ぶら下がる。そのまま桜の枝(綾棒)にぶら下がりながら、桜の花びらが舞い散る中、はるか谷底へ下りるという法力を再び披露する。赤鬼は青鬼に変身し、欣喜して舞い踊りながら終了する。(赤鬼は前鬼、青鬼後鬼の夫婦の鬼の象徴)
所作・動き解説
赤鬼が伏せていた顔を上げ、ゆっくりとした所作で辺りを動く。行者(役小角)が謡曲「春一番」に合わせ鬼を制するようにゆっくりと乱杭を渡る。渡り終わると桜の木が前方に回り、行者が左手で桜の木からさがる綾棒(取手)をつかむ。突然、行者は山車前方の左外側より花吹雪の中を下りる。
鬼も突如赤の面が青に変わり、マサカリを振り下ろしながら激しく体を左右に振り終了となる。
からくり機構解説
人形2体 基本6人にて演じる
役小角(役正角、行者) 差し金、突き上げ棒、綾棒(取手)、2人遣い
高さ80センチメートル
鬼(赤→青) 糸からくり、変身(面被り)、3人遣い
糸は13本⦅右手2、左手2、右足1、左足1、面2、腹1、
頭(左右上下用)3、行者下り用1⦆・梃子棒1(お辞儀用)
高さ110センチメートル
残る1人が桜の花びらを撒く等の役割をする
口上文
タイトル「春一番」
曲調 謡曲風、作詞、作曲 岩月 豊(南山囃方)
春一番の風に吹かれ
乙川の地に絵巻に生きて
残る
からくり蘇る
人形囃子の構成
タイトル「春一番」
曲調 謡曲風、作詞、作曲 岩月 豊(南山囃方)
能管:5人
大太鼓:1人
小太鼓:1人
鼓大:1人
鼓小:1人
鉦:1人
補足解説
乙川の祭礼は、毎年3月下旬、乙川地区の氏神である八幡社と若宮社への山車の奉納を中心に行われている。
八幡社の起源は、定かではないが、棟礼によれば、大永2年(1522)8月に再建され、『入水上社』と言われていた。寛永元年(1624)11月の造営時には、『入水八幡宮』、文政9年(1826)の本殿造営時には、『八幡宮』、明治13年(1880)の拝殿の再建時には、現在の『八幡社』と言われていた。祭神は、文政9年(1826)戌10月の文書によれば、神功皇后、応神天皇、田心姫命、市拝嶋姫であった。大正4年(1915)現在の白山公園の白山社が合祀され連玉之男命、子象母津事解之男命、菊理姫命を加えた。
南山の山車は、宝暦5年(1755)の乙川村祭礼絵図に浅井山・殿海道山の山車に次ぎ現在と同様3番目を巡行している所が描かれ、上山には、『役正角大峯様からくり人形』(乱杭渡り)が飾られている。旧車は、美浜町河和中組に譲渡されたといい宝暦5年の銘がある。しかし、絵図に描かれている山車とは、大きく異なるので、この銘が建造の時期を示すかどうかは、疑問である。譲渡時期については、定かではないが、一説には慶応の頃とされている。このことから、現在の山車の建造年代は、明治初期ではないかと考えられている。
彫刻は、地元半田の彫師新美常次郎の蹴込『牡丹に唐獅子』、壇箱『桃園の三傑』、脇障子『須佐之男命』、『稲田姫』などが施されている。昭和60年には、高蘭を黒檀にした。
大幕は、緋羅紗の無地である。水引は、白地に群鳩飛翔、青海波(青色)、鳩(白・黒)、雲(紺色)の刺繍である。なお、寛政から文化の頃にかけて建造された旧車のものと思われる大幕が保存されている。
「半田博物館展示解説」より引用