西山神楽車

山車および山車組データ

建造

天保年間(1830~1844)

改造

明治43年(1910)、昭和25年(1950)

代表彫刻

  • 壇箱:「稲穂に鶴」「天照大神神馬」「獅子神楽」(初代彫常)
  • 蹴込:司馬温公瓶割の図(初代彫常)
  • 持送り:鯉の滝登り(初代彫常)
  • 脇障子:「神功皇后」「武内宿禰(たけうちすくね)」(初代彫常)
  • 大平鰭:龍と子供、命(初代彫常)

  • 大幕:緋羅紗の無地
  • 水引:「日の出に鶴」の縫いつぶし(小田甫川下絵)

西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 拡大する

山車全体写真

西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 正面正面
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 左斜め前左斜め前
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 左横左横
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 後ろ後ろ
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 右横右横
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 右斜め前右斜め前

法被・看板

西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 法被拡大する
西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 法被拡大する

手拭

西山神楽車(にしやま かぐらぐるま) 手拭拡大する

人形

演目

綾渡り(桜花唐子あそび)

製作者(人形師)

不明

製作年

不明(1848年(弘化五年)以前より存在する)

所有の変遷(譲渡を受けた先、時期など)

不明

からくり人形にまつわるエピソード等

現在の人形は1974年(昭和49年)に復活し、平成31年春に新たに造り替えられた

上演ストーリー

桜の枝に吊るされた綾をつたって二体の唐子が渡っていく、からこは前後に体をゆすりながらその反動で手と足を交互に綾棒に引掛けながら次々と渡っていく様はハラハラドキドキ、観客の目ととらえてやまない。

所作・動き解説

二人で十数本の糸を操って演技する

補足解説

乙川には、枝郷として向山、平地、新居、飯森の4地区がある。各枝郷は、本郷の山車組とかかわりを持ち(向山は浅井山、平地は殿海道山、新居は南山、飯森は西山)祭礼に参加していた。しかし、大正の頃以降は飯森地区のみが参加している。

向山は、獅子舞を司り、宝暦5年(1755)作成の乙川八幡社祭礼絵図の先頭に描かれている。現在は、地元の市杵島神社への神楽獅子の舞(鈴の舞、剣の舞、胴入の舞)の奉納を中心にして祭礼がおこなわれている。この他明和4年(1767)から安永3年(1744)に建造したとする獅子頭を安置するための獅子館があり、祭礼行事の重要な役割をはたしている。その後、獅子は、本郷中組にでき、数十年して本郷南北組、数年後、新居、平地にできた。飯森は、打囃子であった。

平地は、その後、獅子舞がなくなると本郷の山車組との関係もなくなり、かわった神明社境内で行われていた馬駆けも、昭和34年を最後に中止され、現在の祭礼は、巫女神楽の奉納と神輿を中心に行われる。

新居は、大正14年(1925)獅子館を売却したため乙川八幡社への獅子舞の奉納を行わなくなり本郷の山車組との関係もなくなった。現在は、愛宕社への巫女の舞と立神楽(獅子舞)の奉納と花火が中心である。

飯森は、現在も西山との関係を保ち乙川祭礼の中で重要な役割をはたしている。

神輿行列の先頭を飯森地区の人が塩をまいて進み神籬(ひもろぎ:飯森の人が取ってきた榊に白紙で作った人形をつけたもの)が続く、祭礼終了後は、枝を一本ずつ切って、飯森の氏子や各山の代表に配る。

西山のいた洗いの時、翌年の新役員を選出する、その結果は飯森地区へも報告される。また、神輿行列の神酒をのみ、魚を焼いて分け合って食べる神酒納めの行事があるが、この時も西山から飯森へ生魚一匹と神酒を届ける。

西山の山車の起源は、定かではないが、宝暦5年(1755)作成の乙川八幡社祭礼絵図に現在と同様南山に次ぎ四輌目に描かれている。上山には、「富士見西行からくり人形」が飾られている。天保7年(1836)に大改造を行った。その際、旧車の前山を乙川法蔵院の本堂の宮殿にしたという伝承がある。明治43年に大改造を行い現在の形になった。

彫刻は、初代彫常(新見常次郎)作の蹴込「司馬温公瓶割の図」、持送り「鯉の滝登り」、壇箱「稲穂に鶴、天照大神、両妻は神馬、獅子神楽」である。

大幕は、緋羅紗の無地、水引は、白地に日の出と鶴、青海波・雲(青・白色)の刺繍。

「半田博物館展示解説」より引用

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