義烈組八幡車

山車および山車組データ

建造

江戸時代末期

改造

大正8年(1919)

代表彫刻

  • 壇箱:「猪と仁田四郎 虎と和藤内十二支」(出羽看龍)
  • 脇障子:「節分の図」(出羽看龍)
  • 蹴込:「子供獅子舞図」(早瀬長兵衛)
  • 前山蟇股:「鉄拐仙人・蟇仙人」(初代彫常)
  • 持送り:「角つなぎ」(初代彫常)
  • 懸魚:「龍に天女」(初代彫常)

  • 大幕:緋羅紗地に親子龍の金刺繍
  • 追幕:緋羅紗地に竹・虎の刺繍
  • 水引:緑地に群鳩飛翔の刺繍

人形

  • 前棚人形:三番叟

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山車全体写真

義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 正面正面
義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 左斜め前左斜め前
義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 左横左横
義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 後ろ後ろ
義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 右横右横
義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 右斜め前右斜め前

彫刻

横長表示手高欄(左)
横長表示手高欄(右)
横長表示前山

法被・看板

義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 法被拡大する
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手拭

義烈組八幡車(ぎれつぐみ はちまんしゃ) 手拭拡大する

補足解説

岩滑は、北部を阿久比と接する自然豊かな町である。祭礼は、毎年4月の第二土曜日、日曜日の2日間、2輌の山車(義烈組八幡車、西組御福車)の町内曳きと氏神である八幡社において、からくり三番叟、神楽、巫女の舞等の奉納を中心に行われている。

祭礼の歴史は古く、天明元年(1781)の中組(義烈組)若連中からの口上書の中に「年々六月十日ハ疫神祭礼相勤八月十五日ハ往古より当社八幡宮之御祭礼右両度共ニ山車并俄狂言執行到来リ候」とあり、この当時すでに山車の祭礼が行われていたようである。若衆組の組織も古く、江戸時代には中組、西組、東組の3組に分かれていた。明治に入り中組と東組が合併し義烈組になった。明治30年から、昭和33年までの組員の入組時の連盟血判帳が、宝暦4年の「申合一礼之事」、明治25年改正の「総則」、年代不詳の「義烈組組規約」とともに綴られ保管されている。初午がくると、その年に15歳になる者は、半強制的に入組して若衆となった。義烈組規則書によれば、披露として酒二升を納めることになっていた。入組して27歳までが若衆、28歳以上は年寄。また、入組してから山車楫棒にとまれるまでの2~3年は、見習いとして小若衆ともよばれていた。

義烈組八幡車は、嘉永2年(1849)に造られたといわれ、大正2年4月3日半田町の石堂喜市に改築を依頼し現在の形になった。

彫刻は、半田市内で唯一、出羽看龍のものがあり、壇箱「猪と仁田四郎、虎と和藤内、十二支」、脇障子「節分の図」である。蹴込は、尾張藩御用彫師早瀬長兵衛の「子供獅子舞図」である。前山蟇股は、初代彫常(新美常次郎)の「鉄拐仙人、蟇仙人」である。

幕は、平成5年度、山車改修事業として、一新した。赤フェルト地に、「親子龍」の刺繍で構図は、静岡県大須賀町三熊野神社の「子持ち龍」を参考にして新しく製作した。追幕は、「竹に虎」、水引は、「群鳩飛翔」であり、どちらも図柄を復元し新しく新調した。

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